再生型管理放牧システムが農地生態系に与える影響:科学的評価手法と研究の最前線
はじめに
環境再生型農業の実践手法の一つとして、管理された放牧(Managed Grazing)が世界的に注目を集めています。これは単に家畜を放牧するだけでなく、家畜の移動、滞在時間、採食量などを綿密に管理することで、牧草地の回復、土壌の健全化、生物多様性の向上などを目指すアプローチです。特に、耕作地を牧草地に転換して放牧を行う、あるいは作物栽培と家畜を組み合わせるシステムにおいて、この再生型管理放牧は農地生態系に多岐にわたる影響を及ぼす可能性が指摘されています。
本稿では、再生型管理放牧システムが農地生態系に与える影響について、特に土壌、生物多様性、水循環といった観点から最新の科学的評価手法と国内外の研究最前線を概観いたします。環境再生型農業の実践や研究における重要な要素として、その生態学的メカニズムと効果の科学的理解を深めることは、今後の研究の方向性や社会実装の可能性を探る上で不可欠であると考えられます。
再生型管理放牧の生態系への影響メカニズム
再生型管理放牧が農地生態系に影響を与える主なメカニズムは以下の点が挙げられます。
- 家畜の採食と休息: 適切な管理下での採食は、特定の植物種の優占を防ぎ、多様な植物の生育を促進する可能性があります。また、休息場所での排泄物は養分循環に寄与します。不適切な管理は過放牧となり、植生衰退や土壌踏圧を引き起こします。
- 踏圧: 適度な踏圧は、枯れた植生を土壌に押し込み有機物の分解を助けたり、土壌表面の被覆を破って種子の定着を助けたりする効果が期待されます。しかし、過度な踏圧は土壌 compaction(締固まり)を引き起こし、根の伸長阻害や水・空気の浸透性低下を招きます。
- 排泄物(糞尿): 家畜の排泄物は、土壌に有機物と栄養分を供給し、土壌微生物の活動を活性化させます。しかし、特定の場所に集中しすぎると、過剰な養分負荷や病原体の拡散リスクが生じる可能性もあります。
これらのメカニズムが複合的に作用し、土壌の物理性・化学性・生物性、植生組成、昆虫や鳥類などの多様性、さらには水文プロセスに影響を及ぼします。
科学的評価手法の実際
再生型管理放牧システムの生態系への影響を定量的に評価するためには、多角的なアプローチが必要です。主な評価手法は以下の通りです。
- 土壌評価:
- 物理性: 土壌密度、浸透性(インフィルトレーションレート)、団粒構造の安定性などを測定します。踏圧の影響や有機物増加による構造改善を評価します。
- 化学性: pH、有機炭素含有量(SOC)、全窒素、交換性塩基、リン酸などを分析します。排泄物による養分供給や有機物増加を評価します。
- 生物性: 土壌微生物バイオマス、微生物群集構造(DNA解析等)、酵素活性、ミミズなどの土壌動物相を調査します。微生物多様性や活動性の変化を評価します。
- 生物多様性評価:
- 植生: 種組成、被度、草丈、現存量などを quadrat 調査や transect 調査で行います。放牧圧に対する植物群集の応答を評価します。
- 動物: 昆虫(特に送粉者や分解者)、鳥類、小型哺乳類などの多様性や個体数を調査します。ハビタットの変化による影響を評価します。特定の指標種のモニタリングも有効です。
- 水循環評価:
- 土壌水分: 土壌水分センサーや TDR/FDR 装置を用いて経時的に測定します。土壌構造の変化による保水性の変化を評価します。
- 水浸透・流出: 降雨シミュレーターを用いた浸透試験や、集水域レベルでの流出量・水質モニタリングを行います。土壌の浸透性向上や侵食抑制効果を評価します。
- 水質: 河川水や地下水の栄養塩濃度、SS(浮遊物質)などを分析します。排泄物由来の養分流出リスクやフィルタリング効果を評価します。
- 炭素循環評価:
- 土壌有機炭素(SOC): 土壌サンプル中の有機炭素含有量を測定し、炭素蓄積量を算出します。長期的な炭素隔離効果を評価します。
- 温室効果ガス(GHG)フラックス: 土壌からの CO2, N2O, CH4 フラックスをチャンバー法やエディ共分散法で測定します。放牧管理が GHG 排出に与える影響を評価します。
- リモートセンシング・GIS: 植生被覆率、植生指数(NDVI等)、土壌水分、地形情報などを広範囲かつ継続的にモニタリングするために活用されます。広大な放牧地の評価に有効です。
- 生態系モデル: 収集されたデータに基づき、生態系プロセス(炭素・窒素循環、植生動態、水文応答など)をシミュレーションするモデルを構築・利用し、長期的な影響予測や異なる管理シナリオの評価を行います。
研究の最前線と今後の課題
近年、再生型管理放牧に関する研究は増加傾向にあり、その生態系への貢献に関する知見が蓄積されつつあります。
- ポジティブな影響の検証: 多くの研究で、適切に管理された放牧が土壌有機炭素の蓄積、土壌団粒構造の改善、水浸透性の向上、特定の生物(ミミズ、糞虫など)の増加に寄与する可能性が示されています。特に、従来の耕作地を牧草地に転換し放牧を導入したケースで、土壌の健全性が急速に回復する事例が報告されています。
- 生物多様性への影響の複雑性: 植生や動物相への影響は、地域の生態系、放牧密度、管理方法、過去の土地利用履歴によって大きく異なります。一概に「管理放牧が生物多様性を増加させる」とは言えず、特定の種群にはプラス、別の種群にはマイナスの影響が出ることもあります。多様な生物群を対象とした長期的なモニタリング研究が求められています。
- 温室効果ガス排出との関連: 放牧地は土壌炭素を隔離する一方で、家畜の消化管発酵や排泄物からメタン(CH4)や亜酸化窒素(N2O)といった強力なGHGが排出されます。全体としての GHG バランスを評価するには、炭素隔離効果と排出量の両方を正確に定量し、ライフサイクルアセスメント(LCA)的な視点を取り入れる必要があります。
- 地域差と適応: 管理放牧の効果は気候条件、土壌タイプ、植生タイプなど、地域の生態地理学的要因に大きく依存します。ある地域で成功した管理方法が別の地域でも有効とは限りません。それぞれの地域特性に合わせた管理手法の開発と評価が重要です。
- 標準化された評価手法の必要性: 研究間での結果の比較や統合をより有効に行うためには、評価項目、サンプリング方法、分析手法などの標準化が課題となっています。
今後の研究では、これらの課題を踏まえ、長期的な視点での生態系応答評価、複数の生態系サービス(食料生産、炭素貯留、生物多様性保全、水質浄化など)の統合的評価、そして経済性や社会受容性を含めた持続可能性評価へと発展していくことが期待されます。再生型管理放牧のポテンシャルを最大限に引き出し、環境再生型農業の主要な柱として確立するためには、基礎研究から応用研究、そして実証研究に至るまで、科学的な知見の積み重ねが不可欠です。
まとめ
再生型管理放牧システムは、農地生態系の健全性回復と多機能性向上に貢献する可能性を秘めた環境再生型農業の重要な手法です。その影響は土壌、生物多様性、水循環など多岐にわたり、これらの効果を科学的に評価するためには、様々な分野の知見と多様な評価手法を組み合わせたアプローチが求められます。
最新の研究は、管理放牧のポジティブな側面に光を当てる一方で、その影響の複雑性や地域による変動性、GHG排出との関連性など、まだ多くの研究課題があることを示しています。これらの課題を克服し、再生型管理放牧の生態系への貢献を最大限に引き出すためには、今後も継続的かつ多角的な科学的研究が不可欠であると言えるでしょう。研究者コミュニティにおいては、標準化された評価手法の開発や、地域特性を踏まえた実践ガイドラインの策定に向けた研究協力が一層重要になると思われます。