環境再生農業における意図的な生物多様性増加戦略:生態系サービス向上と科学的評価
はじめに
環境再生農業の主要な原則の一つに、生態系全体の健全性の回復と強化が挙げられます。この目標を達成する上で、農場や周辺景観における生物多様性の維持・向上が極めて重要な要素となります。従来の農業における生物多様性の考え方が、有害生物を抑制する「生物農薬」のような特定の機能を持つ生物の利用に限定される場合があったのに対し、環境再生農業においては、土壌微生物から昆虫、鳥類、そして植物群落に至るまで、多岐にわたる生物の多様性を意図的に増加させることで、より包括的で安定した生態系サービスの発現を目指します。本記事では、環境再生農業における意図的な生物多様性増加戦略の種類、それがもたらす生態系サービスへの影響、そしてこれらの効果を科学的に評価するための手法について、最新の研究動向を交えながら掘り下げていきます。
意図的な生物多様性増加戦略の種類
環境再生農業の実践において、生物多様性を能動的に高めるための様々な戦略が提案・実施されています。これらの戦略は、単一の生物種を導入するのではなく、複数の生物群が互いに作用し合う複雑な生態系を農場内に構築することを目的としています。
1. 多様なカバークロップの導入
単一のカバークロップではなく、イネ科、マメ科、アブラナ科など異なる植物分類群や機能を持つ多様な種を混合して播種する戦略は、土壌微生物相の多様性を高め、病害抑制、養分循環の促進、土壌構造の改善に貢献することが示されています。根系の深さや形態が異なることで、土壌の異なる層に影響を与え、より広範な土壌物理性の改善が期待されます。
2. アグロフォレストリーシステムの統合
農作物の栽培と樹木を組み合わせるアグロフォレストリーは、環境再生農業における生物多様性向上の代表的な例です。樹木は多様な野生生物にとっての生息地や餌源を提供し、鳥類や昆虫の多様性を高めます。また、樹木の根系は土壌深部の養分を吸い上げ、落葉によって土壌表面に供給するなど、養分循環の効率化にも寄与します。
3. 農場内生息地の創出・管理
農地の端や不耕作地に、多様な在来植物を植栽したヘッジロウ(生け垣)、送粉者や天敵昆虫のためのバンカープランツ(おとり植物)、ビートルバンク(土を盛り上げた構造物で、特定の天敵昆虫の越冬場所となる)などを設置することは、農場内の生物多様性を直接的に高める戦略です。これにより、周辺の自然生態系と農地をつなぐ生態的回廊が形成され、生物の移動と定着が促進されます。
4. 作物体系の多様化
輪作、間作、混作といった栽培体系の多様化も、生物多様性向上に寄与します。異なる作物を組み合わせることで、特定の病害虫の蔓延を抑制し、土壌中の栄養利用効率を高めます。また、異なる時期に開花する作物を導入することで、送粉者の活動期間を長く維持し、その多様性を支援することが可能です。
生態系サービスへの影響とメカニズム
これらの意図的な生物多様性増加戦略は、単に生物種数を増やすだけでなく、農場生態系が提供する多様なサービス機能の向上に繋がります。
- 送粉サービスの向上: 多様な開花植物の導入や生息地の提供により、様々な種類の送粉者(ミツバチ、マルハナバチ、アブ、チョウなど)が農場に誘引・定着し、作物や野生植物の送粉効率が高まります。
- 天敵による病害虫抑制: 多様な植物種や生息構造は、様々な種類の天敵昆虫(テントウムシ、カマキリ、寄生バチなど)や鳥類にとっての餌や隠れ家となります。これにより、特定の害虫が異常繁殖しにくくなり、農薬への依存度を低減できます。
- 土壌形成と養分循環の促進: 多様な根系を持つ植物や活発な土壌微生物相は、土壌物理性(団粒構造の形成など)を改善し、有機物の分解と栄養素の無機化・再循環を促進します。これにより、土壌肥沃度が向上し、肥料投入量の削減に繋がります。
- 水資源管理への貢献: 良好な土壌構造は水浸透能力と保水能力を高め、雨水流出や土壌侵食を抑制します。多様な植物による地表被覆は、水質汚染物質の流出を防ぐフィルターとしても機能します。
- 炭素貯留の増加: 土壌有機物の増加やアグロフォレストリーにおけるバイオマスの蓄積は、大気中の炭素を固定し、気候変動緩和に貢献します。
これらの生態系サービスは、生物多様性が高いほど、また生物群間の相互作用が複雑であるほど、より安定的に発現することが多くの研究で示唆されています。
科学的評価手法
意図的な生物多様性増加戦略の効果を客観的に評価するためには、多様な科学的手法が用いられます。
- 生物多様性のモニタリング: 特定の生物群(例:土壌微生物、昆虫、鳥類、植物)の種数、個体数、群集構造などを定量的に調査します。形態学的同定に加え、メタバーコーディングなどの分子生物学的手法を用いることで、これまで把握が困難であった微生物や土壌動物の多様性を詳細に解析することが可能です。
- 生態系機能の測定: 送粉効率(例:種子生産量の増加率)、捕食率(例:害虫の捕食試験)、養分循環速度(例:土壌中の窒素無機化速度)、水浸透速度、土壌有機炭素含有量など、具体的な生態系サービスに関わる指標を測定します。
- 相互作用ネットワーク解析: 異なる生物群(例:植物と送粉者、植物と土壌微生物、害虫と天敵)間の相互作用をネットワークとして解析することで、生物多様性がどのように生態系サービスの安定性や効率に影響を与えているかを理解します。
- リモートセンシングと地理情報システム(GIS): 農場や景観レベルでの植生タイプ、地被率、構造の多様性などを広域かつ継続的にモニタリングするために活用されます。
- 長期生態学研究(LTER): 環境再生農業システムの効果は長期間をかけて現れることが多いため、数年から数十年といった長期的な視点でのモニタリングとデータ解析が不可欠です。
これらの手法を組み合わせることで、意図的な生物多様性増加戦略が、どのようなメカニズムで、どの程度の生態系サービス向上をもたらすのかを科学的に解明し、その効果を定量的に評価することが可能となります。
結論と展望
環境再生農業における意図的な生物多様性増加戦略は、単に環境負荷を低減するだけでなく、農場生態系が本来持つ機能を最大限に引き出し、生産性、レジリエンス、そして生態系サービスの向上に繋がる重要なアプローチです。これらの戦略の有効性を科学的に検証し、広く普及させるためには、生物多様性自体の評価に加え、それがもたらす具体的な生態系サービスの定量的評価、そしてその背後にある生態学的メカニズムの解明が不可欠です。
今後の研究では、異なる気候帯や土壌タイプにおける多様性増加戦略の地域適応性、生態系サービス間のトレードオフや相乗効果、そして長期的な経済的持続可能性に関する評価が求められます。また、これらの科学的知見を、実践的な農場管理手法の開発や政策立案へと繋げていくことが、持続可能な農業システムの実現に向けた重要な課題となるでしょう。研究者コミュニティにおいては、分野横断的な協力体制を構築し、分子レベルから景観レベルまで多角的な視点から研究を進めることが期待されます。