環境再生農業に適した作物育種戦略:生態系機能との相互作用を考慮した品種開発の最前線
はじめに
環境再生農業は、土壌の健全性、生物多様性、水資源の保全、気候変動への適応と緩和を目指す持続可能な農業アプローチとして世界的に注目されています。このアプローチの成功には、管理技術の最適化に加え、利用される作物品種の特性も重要な要素となります。従来の作物育種は主に単収向上や病害抵抗性付与に重点を置いてきましたが、環境再生農業においては、より複雑な生態系機能との相互作用を考慮した、新たな育種戦略が求められています。本稿では、環境再生農業に適した作物品種の概念、それを実現するための育種戦略、および関連する最新研究動向について概説します。
環境再生農業における「適した品種」の概念
環境再生農業システムに適した作物品種とは、単に高収量であるだけでなく、以下のような生態系機能に貢献する特性を持つ品種であると考えられます。
- 土壌健全性の向上: 根系構造が発達し、土壌物理性(団粒構造形成など)や生物性(根圏微生物との共生促進など)の改善に寄与する能力。特定の養分(特にリンなど)に対する利用効率が高い品種も、外部投入の削減に貢献します。
- 生物多様性の維持・向上: 混作やカバークロップとして利用しやすい特性(生育速度、草高、アレロパシー効果の調整など)、送粉者や天敵を誘引・維持する特性を持つ品種。
- 不良環境への耐性: 乾燥、塩類集積、高温、病害虫などの不良環境に対する内因的な耐性が高く、外部からの投入(農薬、肥料)に依存せずに安定した生産を維持できる能力。
- 長期的なレジリエンス: 土壌炭素貯留を促進する特性や、極端な気象イベントからの回復力が高い特性。
これらの特性は相互に関連しており、単一の形質だけでなく、植物体の複数の形質が複雑に組み合わさることで発揮されます。
環境再生農業のための育種戦略
環境再生農業に適した品種を開発するためには、従来の育種手法に加え、生態系全体の機能を考慮した新しいアプローチが必要です。
1. 形質評価の多角化
単収や特定の病害抵抗性だけでなく、根系形態、根からの分泌物組成、特定の土壌微生物群集との相互作用能力、養分利用効率(特に窒素固定細菌やリン可溶化菌との共生能力を含む)、アレロパシー活性、他の植物との競合・共生能力、送粉者誘引能力などの生態機能に関連する形質を詳細に評価することが重要です。圃場レベルでの多角的な評価に加え、根箱試験や制御環境下での詳細な解析も組み合わせます。
2. 遺伝資源の活用
在来品種、野生種、近縁野生種は、近代品種には失われた多様な環境適応性や生態系機能関連形質を有している可能性があります。これらの遺伝資源を積極的に収集・評価し、育種素材として活用することで、環境再生農業システムに必要な形質を持つ品種の開発を目指します。ゲノムワイド関連解析(GWAS)やゲノムセレクションなどの技術を用いることで、これらの多様な遺伝資源から有用遺伝子を効率的に探索することが可能になっています。
3. 分子育種技術とゲノム情報の活用
DNAマーカーを用いた選抜(MAS)、ゲノムセレクション、さらにはゲノム編集技術は、育種効率を大幅に向上させる可能性を秘めています。例えば、根系発達に関わる遺伝子、特定の微生物との共生に関わる遺伝子、養分利用効率に関わる遺伝子などを特定し、これらの遺伝子座に基づいて効率的に選抜を進めることが考えられます。また、ゲノム編集技術を用いることで、ピンポイントでの有用形質改変や、複数の環境適応性関連遺伝子の同時改変の可能性も議論されています。しかし、ゲノム編集作物の社会受容性については、継続的な議論と科学的根拠に基づいた情報提供が必要です。
4. 生態系機能に着目した選抜環境
品種の評価や選抜を、低投入条件下や特定のカバークロップ、混作システム下など、環境再生農業の実践に近い環境で行うことが重要です。これにより、実際のシステム下で優れたパフォーマンスを発揮する品種を選抜することができます。土壌微生物群集の状態や、周囲の生物多様性の影響なども考慮した評価系の設計が求められます。
最新の研究動向と課題
近年、根圏マイクロバイオームと植物宿主との相互作用に関する研究が急速に進展しており、特定の土壌微生物群集と強力な共生関係を築き、養分吸収や病害抵抗性を高める植物の遺伝的特性の解明が進んでいます。これらの知見は、微生物との共生能力を高める方向での育種戦略に新たな道を開いています。
また、リモートセンシングやIoT技術を用いた圃場データの収集、および機械学習を用いたデータ解析により、広範な圃場環境下での品種パフォーマンスや生態系機能への影響を定量的に評価する試みも始まっています。これにより、より大規模かつ効率的な育種選抜が可能になると期待されています。
今後の課題としては、環境再生農業システムにおける複雑な生態系機能と作物品種の形質との間の因果関係をさらに深く理解すること、異なる気候帯や土壌タイプにおける品種の適応性を評価すること、そして開発された品種をいかにして農家が利用しやすい形で提供するかという社会実装の側面が挙げられます。
結論
環境再生農業の普及と効果最大化には、このシステムに最適化された作物品種の開発が不可欠です。従来の育種目標に加え、土壌健全性や生物多様性との相互作用、不良環境耐性といった生態系機能に貢献する形質を重視した育種戦略が求められています。ゲノム情報や分子育種技術、さらには生態系機能評価技術の進展は、この新たな育種研究を大きく前進させています。今後の研究では、基礎的なメカニズム解明から、多様な環境下での評価、そして社会実装に向けた研究開発がより一層重要になると考えられます。